世界で一番の工場をつくりたい。
そんな夢も、ここなら実現できる。

世界で一番の
工場をつくりたい。
そんな夢も、
ここなら実現できる。

生産技術開発

加茂 良和

四輪事業本部/生産統括部/鈴鹿製作所完成車第一工場/アシスタントチーフエンジニア
※インタビュー内容は取材当時のものです。

2001年 設備設計会社に入社。国内の新設工場の現場監督を歴任。その後、カナダ、アメリカ、中国など海外の新設工事も担当。結婚を機に関東圏の仕事に従事するようになる。2007年、さらに自由度の高い仕事を求めて、子どもの頃から憧れであったHondaへ転職。鈴鹿製作所で生産技術を担当。Honda初の自社によるライン構築に携わった後、2012年から設備保全へ。より現場に近いところで、設備を、人を、Hondaを見つめている。

- 職種内容とやりがい -
はじめて任された仕事が、Hondaでも前例のない仕事。

- 職種内容とやりがい -

はじめて任された仕事が、
Hondaでも
前例のない仕事。

2007年。私のHondaでのエンジニア人生は、生産技術の仕事からスタートした。入社してまもなく、上司に言われた言葉でいまでも大切にしている教訓がある。「できるできないを聞いているんじゃない、やるかやらないかを聞いているんだ」。Hondaでは、やってもいないのに「できない」「無理です」は許されない。私にはじめて任された仕事は、すでに数億円の予算が組まれた生産ラインを0からつくることだった。しかも、Hondaでもこれまで前例のない、Honda独自の自前設計で作り上げるライン。正直、想像以上の重責だった。「やる?やらない?」「やってみます。」Hondaは生産技術に関しても、決して妥協せずとことんこだわる。求める要件を満たす設備が世になければ、自前で設備ごとつくる。私にとっても、まったく未知の分野。それでも、自分で図面を引かなければ何もはじまらない。緊張感で、眠れない日々が続いた。朝起きると力いっぱい手を握っていて、なかなか開かない。無理やり開くと、汗でぐっしょりなんてこともあった。それでも、本や文献を読み漁り、周りの力も借りながらなんとかやり遂げられたのは、スキル以上に「絶対にやってやる」という意志の強さに他ならなかったと思う。

つい先日、その頃の上司に会った。「あの頃、お前、よく頑張ったよなあ」と笑顔で言われ、泣きそうになった。そう、あれを乗り越えられたことで、私はHondaの一員になれた気がしている。無謀かどうかはやってみないとわからない。前を向いていれば、道は必ず拓く。少なくともHondaというフィールドはそれが可能な場所なのだ。5年間、生産技術という仕事をやっているうちに、もっと現場を知りたいという思いが芽生えはじめた。生産するための工程を作るには、その生産ラインを使う人の立場を知ることが最優先。そこをとばして、本当にいいものはつくれないんじゃないか。そんな気持ちで、設備保全への異動を願い出た。やりたいと声を上げた者にNOといわないのがHondaだ。

設備保全の仕事も、クルマづくりにとって、なくてはならない重要な仕事だ。特に私はメンテナンスの重要性を常に考えている。どんなトラブルも突きつめるとメンテナンスの不備にいきつく。しかし不備は、ただそれを声高に叫んでいてもなくなるものではない。そこで働くスタッフひとり一人が、工場の全体のあり方を考え、それぞれの立場で最大限の努力をし、円滑なコミュニケーションをすることが重要になる。だからこそ、私はメンテナンスの重要性を説くと共に、できる限り体を動かして、人と人との橋渡しを心掛けている。部署やユニットなど、グループを細かくすればするほど意思疎通はしやすくなる。しかし、それぞれの部署やユニットが、共通の目的をしっかりと認識しなければHondaという企業の持つ大きな未来にたどり着くことはできない。一番大切なのは、同じ目標に向かって、みんなで力を合わせること。そのために、腹を割ってコミュニケーションをとれること。青臭く聞こえるかもしれない。しかし、ここで働く全員が、時にはぶつかりながらも、まるで家族のように笑顔で働けること。それこそがHondaをHondaたらしめている要因なのではないかと思うのだ。

- キャリアストーリー -
子どもの頃から、Hondaが好きだった。

- キャリアストーリー -

子どもの頃から、
Hondaが好きだった。

母がHonda向けサプライヤーの工場で働いていた。地元がHonda発祥の地、浜松だった。子どもの頃から周囲にはHondaがあふれていた。町を歩いていてもHondaの車の数を数えるような子どもだった。もちろん、初めて買った車もHonda。四つ目のライトが付いたインテグラ。アクセルを踏み込むとVTECの心地よい加速が心を震わせてくれた。だったらなぜ、新卒で入らなかったのかと思うだろう。惚れ込みすぎて、自信がなかった。Hondaには優秀な人たちが山のようにいて、自分なんて無力だと勝手に思い込んでいた。だから、Hondaではなく生産設備を提案する会社に入社した。そこでは、様々な国内工場や海外工場の設備設計を担当する中で、自動車メーカーの設備を担当することもあった。Hondaは担当していなかったが、他の自動車メーカーの人たちと仕事をするうちに、当時の思いを抑えられなくなった。枠のあるなかでアレンジするだけの仕事から解放されたいと思うようになった。もっと自由度の高い仕事がしたいと願うようになった。働きはじめて6年が経とうとしていた。

今なら自分にもやれるかもしれない。そんな小さな自信が芽生え始めた頃、Hondaへの転職を決意した。Hondaしか受けなかった。「落ちたらどうしますか」と面接で聞かれ「来年、もう一度受けます」と答えた。嘘ではなかった。本当にHonda以外は考えていなかった。前職の上司も、「Hondaならしかたない。他なら引き留めようと思ったんだけどな。」と、背中を押してくれた。子供のころから夢見たHondaと、入社してからのHondaにはギャップがなかった。思った通り、みんなが和気あいあいと、しかし、熱い情熱で素晴らしい車を生み出そうとしている夢のような空間だ。いや、自由なムードは想像以上だったかもしれない。ここでは、学歴は関係ない。青服も白服も関係ない。人と人とがぶつかり合いながら、Hondaというブランドを日々つくり上げている。

ここでは、できないことなんて、何もない。できないことがあるとしたら、それは自分自身が諦めた時だけだ。いま、私の夢は工場をまるごと一つ自分たちの手でつくること。誰もが働きやすい世界で一番の工場。最新の設備を導入して、最先端の技術を駆使すれば、世界一の工場になれるわけではない。そこで働くスタッフ全員が快適に仕事に取り組むことができて、不満がどこからも聞こえてこない工場。そういう環境でしか、世界中がわくわくするような夢の車は生まれないと思うから。みんなが「新しい車」「快適な車」「素晴らしい車」を夢みている中に、一人くらい「工場がつくりたい」と言っている奴がいてもいいじゃないか。それを面白いと思ってくれる会社がHondaだ。きっと、君の夢もHondaというフィールドなら、夢から大きな目標に変わるだろう。

column

Hondaの生産技術開発

浜松/栃木/埼玉/鈴鹿の製作所にて、自動車製造ラインの構想、設計、評価に至るまで仕組みづくり全般を担う。新設備導入にも携わることができ、海外駐在の可能性も開かれている。●仕事詳細:モーター・車体・パワートレイン・接合領域・塗装領域・プレス金型・アルミ鋳造金型・樹脂金型の生産技術開発として、新製法や設備の構想、設計、機器開発、要素技術開発、評価など多岐にわたる。その他Honda独自車両検査技術開発(車両ECUとの通信・制御ソフトウェア開発・設計、新機種及び新工場の設備成立性検証業務の自動化、ツール開発など)。●将来的には工場の新設など、現場全体のマネジメントに携わることが可能。